Vook特別ロングインタビュー「私の映像哲学」。映像ディレクター・内山拓也さん後編です。
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【内山拓也インタビュー(前編)】『佐々木、イン、マイマイン』はすべてを捨てるところからはじまった
Vook特別ロングインタビュー「私の映像哲学」。今回のゲストは映像ディレクターの内山拓也さんです。 文化服装学院在学中に映画の虜になり、23歳で初監督した『ヴァニタス』でPFFアワード2016観...
引き続き、劇場長編デビュー作『佐々木、イン、マイマイン』(2020年)のお話をうかがいながら、King Gnu『The hole』をはじめとするMVやリーバイスほかのCMのお話も。
「映画は引き算で、MVやショートムービーは足し算でつくる」と語る内山さん。抑圧された時代に、クリエイターに求められるものとは? 映像づくりに必要なグラフィックの感覚についても話してもらいました。
インタビュー&構成:河尻亨一(編集者・銀河ライター)
写真:押木良輔
「説明」の台詞はできるだけ少なく
——映画『佐々木、イン、マイマイン』についてうかがってきましたが、内山さんはミュージックビデオやCMの演出もされていて、ここからはそっちの仕事のお話も交えながら質問してみます。つくられたものをいくつか拝見すると、恋愛のシーンでグッとくるものが多い印象も受けました。『佐々木』でも、主人公と彼女の別れのシーンが見応えありましたが。
内山拓也(以下、内山) 映画で日本的な男女の別れを描くときに、互いに思い出を語り合ったりして、「いろいろあったけど、憎悪や罵声、あるいは悲嘆の涙でお別れ」みたいな決めつけた類型的なものにしたくないと思っているんです。「いや、そんなふうに男女って別れないよね」みたいな感じがすごいあって。
——そんな説明的なものではないと?
内山 そうですね。言葉にするとありきたりになってしまうんですけど、「別れて、また出会って」ということは、『佐々木』でも大事なテーマでしたから、それを“えも言われぬ感じ”で伝えるためには、それこそ「過去にこういう会話があったんじゃないか?」とか「(二人のあいだに)こういう空気が流れていたんじゃないか?」といったことを、作為的に描くのではなくて、“丸ごと閉じ込めて撮る”にはどうしたらよいかと。
——“丸ごと閉じ込めて撮る”という感覚なんですね。
内山 そうですね。ユキと悠二が最後、旅館の前でサヨナラをするわけですけど、そこまでをどう撮れば、あそこの会話で「そういうことだよね…」という空気が出せるのか。『佐々木』の家に行くまで、二人はほとんど会話もしてないですから、役者もすごい大変だったはずだし、それを閉じ込めようとする僕らも大変で。まあ、「大変」っていう言い方は制作者としてしたくないんですけど、そこは一番闘ったところかもしれないです。
——二人の会話はあえて少なくしているんですか?
内山 会話というより説明ですね。映画の台詞には、2種類あると思っていて、ひとつは説明するため。つまり、お客さんに情報を伝えて物語を先に進めるための台詞と、そうではない台詞に分かれるんですけど、説明のための台詞は、少なければ少ないほど面白いんです。
だけど、少なければ少ないほど、物語の筋が伝わらなくなってしまう。だから、そこの塩梅というか、やりとりの誤魔化し方って言うんですかね? 説明の台詞がなかったかのように入れ込んでいるのが巧い映画だし、それをやるのは途方もない作業なんです。
エリック・ロメールの『緑の光線』っていう映画があるんですけど、僕、あの映画がすごく好きなんですね。ロメールの作品を観るときは、なるべく撮影のことは意識しないようにしてるんですけど、ロメールの映画の台詞は、ほとんどが後者なんです。
物語として機能していない台詞が9割くらいあって、説明のための台詞が埋没してるんですけど、それがうまいこと紛れ込むことで、映画として成立していているんです。日本映画ではそういう台詞の使い方をしているものが少ないという自戒を込めた危惧もあって、それは今回、自分に課していた課題でしたから、特にユキと悠二のやりとりでは、なるべく説明のための台詞を入れないように、物語を進めようとしました。
——映画に限らずコマーシャルでもテレビ番組でも、日本の映像はちょっと説明過多なところがあると思います。テロップをデカデカとクドいくらい入れたり。過剰なおもてなしがあるというか。
内山 お客さんだって、日々いろんなクリエイティブに触れているし、クリエイティブなことをしているのに、あまりに説明を多くしてしまうと、受け手側をバカにしているかのように思われかねないんですね。そのことで送り手側が上に立つかのような印象を与えるのは、基本的に間違っていると僕は思うし、それをやり続けていくと、お客さんのほうも「映画ってそういうものだ」と思うようになってしまう。
そうなると、僕らよりも下の世代の子どもたちには負の遺産になってしまうので、「そんなものを彼らに残すのか?」という気持ちが強いんです。映画は社会に対して商業的な娯楽を提供するものであると同時に、「批評」や「報道」の権利と役割もあると思っていて、それを放棄しちゃうとプロパガンダになっちゃいますから。
ちょっと話が大きくなりますけど、僕はその危機感をめちゃくちゃ感じています。映画の役割を下の世代にちゃんと伝えたい気持ちがあるんですよね。もう29なんで、結構年食っちゃったんですよね。
——いや、めちゃくちゃ若い。これからですよ。
内山 でも、個人的には下の世代から突き上げることが大事だと思っている。だからただ黙って右向け右は出来ないんですよね。伝統や文化は常に下から壊して再構築していき続けないことには維持出来ないし、何も変わらないと思うので。僕のほうがもっと年を食ってしまうと、同じことになってしまうから。
だから、焦ってるというか……。ほんとは20歳くらいでやりたいことがたくさんあったんですけど、やれることが当時はもっと少なくて、「ああ、今年もできなかったか…」ということを繰り返すうちに、29歳になってしまって。
映画は「引き算」、MVは「足し算」でつくる
——『佐々木』は“デビュー作”だと言われてましたが(前編)、あれを20代でできたのは大成果じゃないかと。それも何年もかけて完成させたわけだから。
内山 焦って納得できないものを出すのは、こんな性格なのでできなくて。我慢も常にしますし、いまも心理的に“屈伸”してる感覚があるんです。
『佐々木』を撮ったことで、「今度、こういう映画撮りませんか?」というお話はありがたいことにたくさん頂いているのですが、規模に限らず納得できなければお断りしたりもしていて。1段飛ばしで人生を行きたいというより、毎回5段ずつくらい飛ばしたい気持ちがあるんです。でなければまたどんどん自分が老いてしまう。次の何かを確実に放てるまで潜んでいようと。それまでは「内山は何をやっているのかわからない」って思われてもいいというか。
——話題をちょっと変えると、内山さんの演出する映像には、いまどき珍しくタバコを吸う人がたくさん出てきます。何か理由があるんですか?
内山 内容にもよりますけど、タバコとか、お酒とか、習わし全般の風俗とかーーそういう娯楽というのか、嗜好品をうまく機能させて表現するのがクリエイティブだと思っていて、その中のひとつとしてタバコも大事なものなんです。だから僕はなるべく出そうと。タバコや飯、お酒がうまそうな映画はいいな、と思うので。
——昔の名画には、酒・タバコを魅力的に描いたものが多いですね。
内山 でも、自主規制がすごいんです。特にタバコは。だから上手に闘わなくちゃいけなくて。CMでも、言えないことがたくさんあるじゃないですか。自主規制って本当にすごいなと感じています。
——ちなみにMVで泣くシーンが多いのはなぜ?
内山 泣くシーン? そうですね。なんで? って言われると難しいんですけど。最初に撮ったMVがKing Gnuの『The hole』で、あのMVでああいうことをやってしまったので、それに近いメッセージ性があるものをつくってほしいというリクエストもあって——というのはひとつありますね。
一方で、僕、映画をつくるときとMVやショートムービーをつくるときは、考え方が違っていて。後者は完全にメッセージやビジュアルの文化だと思ってますから、映画とは逆で、引き算じゃなく足し算でつくっているんです。
毎回の与えられている内容にもよりますけど、MVはどれだけ切れ味の鋭いもの、カッコいいもの、かわいいものを積み上げられるかが勝負ですから。全方位的には描かず、ある種作り手の都合ではないものをカテゴライズした上で「悲しい」を表現したいというのであれば、全力でそこを刺しにいくというか。
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